HitoriYogari

さよならエンタメ精神

紫のパンジー

「悩んでいる時間はないんですよ。あなたも囲碁を勉強しているからわかるでしょう。あー、これはしまった、という手のあとに、ウジウジ悩んでいたら、その局はもう負けですよ。そうじゃないでしょう。その手を、どう活かすか。悪手を、ものすごい手に見せかける方法を、必死に考えるんですよ。悲しみは、心の奥で持っていればいいんですよ」

野坂昭如氏が亡くなった、翌日のことだった。
先生の心の奥底。
六十六年間、前だけ見て生きてきた先生の、心の奥底には、何が積もっているのだろう。

「葬儀で泣き崩れるなんてみっともない」
先生は言った。
「どうしても悲しいときは、家で、一人で泣けばいい」

先生は泣いたのだろうか。
本当は悲しいのだろうか。
それすらも分からないほど、先生は普段通りだった。

未熟なのだ。
僕は、先生の話を聞くたびに、自分の幼さを痛感する。
泣かず、語らず、誰にも見せない心の奥底だけで悲しむ。
やっているつもりでも、僕は結局、誰かが、心の奥底まで降りてきてくれることを願っている。

「ラーメン、ちょっと食べていきますか、忘年会ですからね」


先生が飲んだ後にラーメンを食べると言い出すときは、奥さんがでかけていて、ご飯が家にないときだ。
たまに、あなたは私のことをなんでも知っていますね、と言われることがある。そのたび、少し、恥ずかしくなる。


江古田を行く人々の足が早い。
今年は、悪手ばかり打ち続けてきた。
先生を見送ったあと、ふと思い立って、
北口に降りてみた。なにが変わっていることもない。
これから、僕の心の奥底には、なにが積もってゆくのだろう。
誰にも言えない幸福も、あると思う。